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池田輝政 姫路城を建てた人はどんな人?【家紋 揚羽蝶】石高52万の初代藩主とは

姫路城

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姫路城を建てた人、姫路藩初代藩主の池田輝政は、どんな人だったのでしょうか。

池田輝政は、姫路城を大改修で築城し、現在の姿を作った人で、揚羽蝶の家紋が姫路城のいたるところで見られます。

今の姫路城は誰が建てたのか、歴史的背景や建てられた年など、別名「池田三左衛門輝政」の生涯・歴史について紹介します。

池田輝政とは 出身と人柄

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池田輝政像 Wikipedia リンクより

池田輝政(てるまさ)は、1564年に池田恒興(つねおき)の次男として尾張国清州に生まれます。

輝政は子供の頃から口数が少ないものの、性格は大変温和だったといわれています。

輝政の寡黙で温厚な性格は、誰からも愛され、普段は剛直ながらも、目下の者に対しては、いたって寛容だったと伝わっています。

池田家の家紋

池田輝政の揚羽蝶の家紋

池田家の家紋は、蝶をもって本紋としています。

蝶の紋は後に変化していますが、池田家は本来揚羽の蝶を用い、初泊蝶、後星蝶などがあります。

※参照:橋本政次『姫路城史 上巻』p647

池田輝政の父親 池田恒興とは

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池田恒興像 Wikipedia リンクより

池田輝政を知るうえで、父親の池田恒興(つねおき)の存在を外して、語ることはできません。

輝政の父親である恒興は、織田家の家臣で、織田信長とは乳兄弟にあたります。

恒興は小姓として幼い頃より織田家に仕え、桶狭間の戦いなど数多くの戦で、功績をあげていきます。

荒木村重が信長に謀反を起こした、有岡城・花隈の戦いでは、長男の元助、次男の輝政とともに、親子で大活躍します。

1582年(天正10年)、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、恒興は羽柴秀吉と合流し、山崎の戦いで先鋒隊をつとめます。

山崎の戦いの後、信長の後継者を決める清州会議には、恒興も出席しています。

清須会議のメンバーは、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興の4人なので、恒興は当時、戦国時代TOP4にあたる実力者だったといえます。

恒興はその後、小牧・長久手の戦いで奮戦しますが、長男の元助とともに討ち死にします。享年49歳でした。

次男であった輝政は、父親である恒興と、長男の元助が亡くなったことで、池田家の家督を継ぐことになります。

関ケ原の戦いでは東軍に参加

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関ヶ原合戦図屏風 Wikipedia リンクより

家督を継いでからの池田輝政は、豊臣家のために懸命に働き、秀吉に優遇されました。

九州平定や小田原合戦など、秀吉の主要な戦いには必ず輝政が加わり、豊臣政権の主力となる活躍をします。

1594年、秀吉が仲介するかたちで、徳川家康の娘である督姫(とくひめ)を、輝政が妻として迎えました。

輝政は幼い頃から、信長や秀吉に仕えてきましたが、やがて秀吉の死とともに、家康を慕うようになっていきます。

1600年、関ケ原の戦いで、徳川家康率いる東軍と、石田三成が実質的に中心となった、西軍が対峙すると、輝政は東軍に加わります。

天下分け目の争いとなった、関ケ原の戦いで、輝政がついた東軍が、大勝利を収めることになったのです。

池田輝政の石高

1600年12月、関ヶ原の戦いで大きな功績があった池田輝政は、播磨52万石を与えられます。

池田輝政が軍功により播磨国五十二万一千石を与えられ、姫路城に移り、のち二男忠継に備前国二十八万六千石、三男忠雄に淡路国六万三千石、合わせて本知八十七万石、別に播磨一国の検地により十万八千石を打出し、世に姫路百万石といわれた。

『姫路城の話』p66より

輝政は播磨のほかにも、備前と淡路を与えられ、世に姫路100万石といわれて、姫路宰相や西国将軍と称されるほどに、出世を果たしました。

姫路城の築城と城下町の整備

姫路城と城郭
姫路市HPより

姫路藩の初代藩主となった池田輝政は、1601年から8年の歳月をかけ、姫路城を近世城郭の技術で大改修し、現在の姿につくりかえます。

この時城下には宿村・中村・国府寺村の三ヶ村があって姫路と称しており、極めて寂しいところであったのを、輝政は100万石を得てこの地を三国の中心とし、城を増築して五層の天守閣を築き、内堀・外堀を堀り、城外に八十八区画に区分した「米」の字の形の町をつくり、市内に十一門、市外に五大門を設置して人々の往来を取り締まった。

『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p39より

輝政は築城と合わせて、城下町の整備にも着手し、城の北から左巻きに堀をめぐらせます。

現在残っている姫路城の堀は、内曲輪(うちぐるわ)の堀だけで、その外側には中曲輪(なかぐるわ)、そのさらに外側には外曲輪(そとぐるわ)がありました。

曲輪とは、堀や石垣などで区切られた区画のことで、輝政は姫路城を中心に3つのエリアをつくり、姫路の城下町を整備しました。

現在の姫路城と、姫路のまちの基礎は、輝政が築いたといっても過言ではありません。

別名は池田三左衛門輝政

三左衛門堀橋から見る外堀川

城の南に飾磨津に通じる運河を開削しようと計画したが、完成しないまま中止となった。

その跡を三左衛門堀と称している。

『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p40より

池田輝政は、姫路城から海まで南に約5㎞の間を、運河で結ぼうとしました。

しかし、輝政が亡きあと工事は中断して、そのままになってしまいます。

輝政の別名は「池田三左衛門輝政」といい、通称「三左衛門(さんざえもん)」と呼ばれていたので、未完成の運河は、三左衛門堀として今でも残っています。

姫路港に水軍基地

池田輝政は、播磨灘に面した飾磨津に、水軍基地を整備していました。

三左衛門堀は、姫路城から外港・軍港があった飾磨津まで、大きな船を通すために計画された堀だったのです。

姫路城と水軍基地については、2019年12月、NHKのテレビ番組「ブラタモリ」で取り上げられ、大きな話題となりました。

姫路での最後と死因

戦国乱世のなかで、姫路城主として出世を果たした池田輝政は、1613年に50歳でその生涯を終えます。

一時輝政は全く快復して、関東に下った程であったが、幾何もなく、又もや宿病の中風症が俄かに再発して、吐血し、言語を発せず、危篤に陥った。

『姫路城史 上巻』p632より

晩年の輝政については「中風症」に悩まされたとありますが、現在の研究では、脳卒中の後遺症だといわれています。

池田輝政の子孫は岡山へ

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池田光政像 Wikipedia リンクより

輝政は城を治めること十四年にして死去し、子の利隆が跡を継いだ。

輝政の孫の光政の代に備前に移り、その跡は本多忠政が十五万石を領して伊勢桑名城から(姫路城に)入府した。

『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p40より

池田家は播磨だけでなく、備前岡山・因幡鳥取などあわせて、100万石近い大封を得ることになります。

池田家は姫路城から移りますが、輝政と徳川家との縁組は、池田家の家格を引き上げ、明治維新まで繁栄していくことになります。

池田輝政の生涯・歴史まとめ


池田輝政について調べていると、現在ある姫路のまちの基礎が、輝政によって築かれたことがわかります。

輝政が残した功績は、今でもまちのいたるところで、見ることができます。

温故知新、姫路のまちづくりにおける、輝政への評価と顕彰が、さらに進むといいなと思います。

参考文献:姫路城の歴史をまとめた本 絶対にオススメしたい厳選6冊を紹介!



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