姫路城の城主について、歴史の流れがつかめるように、6つのポイントで、簡単にまとめてみました。
初代藩主の池田氏から、本多氏、松平氏、榊原氏、そして最後の城主を務めた酒井氏まで、歴代城主が年表でも分かるようになっています。
姫路城は誰が作ったのか、歴史のなかで有名な人物や、お城の家紋が誰の名前か分かる、一覧とあわせて紹介します。
姫路城の城主・歴史を簡単に解説
歴史のポイント ① 姫路城は築400年、木造5層6階
姫路城は、姫路市街の北側にある、姫山に築かれたお城です。大天守と3つの小天守からなる連立式となっています。
1600年に池田輝政が城主となり、9年かけて完成した木造の天守は、今では築400年以上になります。
【姫路城の基本情報】
所在地 | 兵庫県姫路市本町68番地 |
所有者 | 文部科学省(文化庁) |
管理団体 | 姫路市 |
築年数 | 約400年 |
姫路城は誰が作ったのか
池田輝政像 Wikipediaより
歴史のポイント ② お城と城下町は池田輝政が築いた
現在の姫路城を建てた人は、戦国時代の武将、池田輝政(てるまさ)です。
1600年12月、天下分け目の決戦となった関ケ原の戦いで、大きな功績をあげた池田輝政は、播磨52万石を与えられます。
池田輝政の系譜
輝政の父親である恒興は、信長と乳兄弟にあたる。信長亡き後の清州会議に出席した4人のうちの1人。織田家の重臣。輝政は、徳川家康の娘である督姫(とくひめ)を、妻として迎えている。
池田輝政は播磨のほかにも、備前と淡路を与えられ、世に姫路100万石といわれて、姫路宰相や西国将軍と称されるほどに、出世を果たしました。
姫路市中心部 Wikipediaより
姫路藩の初代藩主となった池田輝政は、新たな姫路城の天守だけでなく、城下町の整備にも取り掛かります。
姫路城を中心に左巻きに堀をめぐらせ、内曲輪、中曲輪、外曲輪の3重エリアで、城下町を形成します。
江戸城と江戸の城下町を作った人といえば、徳川家康ですが、姫路城と姫路の城下町は、池田輝政によって基礎が築かれたといえます。
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現在の姫路城を築城する前は誰が城主?
歴史のポイント ③ 黒田官兵衛が秀吉にお城を献上
池田輝政が城主になる以前、姫路城が建っている姫山に、初めて砦が築かれたのは、1333年、赤松氏の時代だと伝えられています。
それ以降、赤松氏、山名氏、小寺氏を経て、小寺氏の家臣であった、黒田重隆が居城を構え、黒田孝高(通称:官兵衛)の時代に、戦国乱世の波が訪れます。
黒田官兵衛は、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」にも描かれた、戦国時代に有名な姫路ゆかりの名将です。
知略や軍事的才能に優れ、後に天下を統一することになる、秀吉の側近として仕えました。
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<秀吉像> Wikipediaより
秀吉に仕えた黒田官兵衛は、秀吉が中国地方に攻め入る際に、自らの居城を秀吉に献上します。
これにより秀吉は、この地を中国攻めの拠点とするため、大幅に守りを固め、天守を築きます。
秀吉が築いた当時の天守は、現在では残っていませんが、太閤丸として伝えられており、3階造りの城だったといわれています。
池田輝政が現在の天守を築くとき、豊臣秀吉の天守を取り壊し、その材料を利用しながら、築城したことが分かっています。
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姫路城の歴代城主一覧(年表)
歴史のポイント ④ 前半は入れ替わり、後半は酒井氏
初代姫路藩主から、明治維新にいたるまでの約270年間、歴代城主が姫路城を治めました。
前半の約150年は、池田氏、本多氏、松平氏、榊原氏が入れ替わりで、後半の約120年は、酒井氏が姫路城を治めます。
映画で有名になった城主
近年、映画で有名になったのが、松平直矩(なおのり)です。1648年と1667年の2度にわたり姫路城の城主になっています。
1度目は、姫路城主であった父直基の逝去により、家督を継ぎましたが、幼少だったので、翌年に国替えとなっています。
その後、成人になり姫路に復帰したので、2度目となる姫路城主に就くことになります。
松平直矩は、徳川家康の血を引く譜代大名でありながら、日本中を西へ東へ7回も引っ越しさせられ、引っ越し大名と呼ばれたそうです。
映画「引っ越し大名」は、姫路城から国替えを命じられた、松平直矩の実話がもとになっており、石高を減らされた直矩と、その家臣たちの苦労が物語になっています。
好色大名といわれた城主
好色大名といわれたのが、榊原政岑(まさみね)です。1732年に、父政祐の後を受け継ぐかたちで、姫路城主になりました。
18歳で城主になった榊原政岑は、江戸吉原の遊女「高尾太夫」を身請けし、姫路城の西屋敷に住まわせて、豪華な酒宴を開くなどしていました。
当時は幕府のもとで、倹約令が出されていましたが、それを無視した榊原政岑はとがめられ、越後高田へ隠居させられます。
榊原政岑の不行は世に知られましたが、一方で、将棋や三味線・浄瑠璃などに堪能で、遊び好きであったことから「風流大名」とも言われています。
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姫路城の最後の城主
酒井忠邦の肖像 Wikipediaより
歴史のポイント ⑤ 最後の城主は酒井忠邦
最後の城主となったのは、酒井忠邦(ただくに)です。1868年に姫路藩主、酒井忠惇(ただとし)の養子となり、同年、姫路藩酒井家の第10代目となります。
酒井家は、江戸時代の中期から後半にかけて、長く姫路藩を治めてきましたが、第9代藩主の忠惇の時に、明治維新が起こります。
姫路藩主となった酒井忠邦は、新政府との戦いで朝敵とみなされた、姫路藩の汚名を返上するために、奔走することになります。
明治維新の時代に、姫路藩の本領を安堵するため、著しい功績を果たした忠邦は、最後の姫路城主として、姫路城史に掉尾を飾りました。
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城主が去ったあとの姫路城
歴史のポイント ⑥ 明治以降は文化財・史跡として価値を高める
酒井忠邦が版籍を奉還し、明治維新の世を経て、城主がいなくなった姫路城は、国が所有することになります。
日本にある城の天守のなかで、江戸時代またはそれ以前に建設され、現存しているのは12天守となり、姫路城はそのひとつです。
姫路城は明治以降、昭和の大修理、平成の修理など、幾度の大改修が行われ、国宝や特別史跡に指定されながら、文化的価値を高めていきます。
姫路城の指定・登録
・1931(昭和6)年 天守閣が国宝に指定。
・1951(昭和26)年 新国宝に指定。
・1993(平成5)年 ユネスコの世界文化遺産に登録。
姫路城には城主の家紋が残っている
姫路城では現在でも、建物の瓦などいたるところに、城主の家紋が残っています。
姫路城で見られる歴代城主の家紋と、家紋に表される、城主のポイントを紹介します。
■五三の桐:羽柴秀吉
西国進攻を信長から命ぜられた秀吉は、黒田官兵衛のすすめによって、この丘にはじめて三層の天守を築いた。有名な高松城水攻めや、山崎の合戦もこの城から出陣した。
■五七の桐:木下家定
秀吉の室ねねの兄で、関ケ原の戦いの後に、備中足守へ国替えになるまで、16年在城した。
■揚羽蝶(あげはちょう):池田輝政
輝政は徳川家康の娘婿。城下を含めた巧妙な縄張りをして、現在の姫路城を築いた。三代目の光政は、幼少なので鳥取へ移封、後に岡山城主になった。
■立葵(たちあおい):本多忠政
忠政は、長男忠刻とその室(千姫)のために、西の丸を築き、三の丸にも御殿を造営して、現在の姫路城を完成した。三代続いた後、大和郡山へ移封。本多家はのちの忠国のとき、再び姫路城主となった。
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■沢瀉(おもだか):松平忠明
忠明は徳川家康の長女亀姫の婿、奥平信昌の三男。家を継いだ忠弘のとき、山形へ移封。
■三つ巴(みつどもえ):松平直基
結城秀康の四男、すなわち徳川家康の孫であるが、姫路へ赴任の途中に死去した。その後、子孫が2回も姫路城主になった。
■源氏車:榊原忠次
在城中は治績を挙げた名君。二代続いたあと、越後村上へ移封されるが、政邦のとき再び姫路城主となる。城主政岑は、江戸三浦屋の遊女高尾を落籍して、西屋敷に住まわせたという、風流な大名であった。
■剣酸漿(けんかたばみ):酒井忠恭
明治維新まで10代、120年続いた城主。その間、宗雅の号をもつ忠以をはじめ、名君が治世し、姫路文化の基礎を築いた。
※姫路城改修時の案内板を参照
姫路城の城主と歴史を散策
1600年12月、池田輝政が初代姫路藩主となり、姫路城と城下町の礎を築いてから、現在見られる全容が整ったのは、1617年になります。
その後、明治維新に至るまでの、約270年間、姫路城では時代とともに城主が入れ替わり、姫路の街に様々な痕跡を残しています。
姫路城を観光する際にも、城主ゆかりの歴史を発見しながら、散策してみるのがおすすめです。
歴代の城主 城主になった年
※池田輝政 1600(慶長5)年
・池田利隆 1613(慶長18)年
・池田光政 1616(元和2)年
・本多忠政 1617(元和3)年
・本多政朝 1631(寛永8)年
・本多政勝 1638(寛永15)年
・松平忠明 1639(寛永16)年
・松平忠弘 1644(正保1)年
・松平直基 1648(慶安1)年
※松平直矩 1648(慶安1)年
・榊原忠次 1649(慶安2)年
・榊原政房 1665(寛文5)年
※松平直矩 1667(寛文7)年
・本多忠国 1682(天和2)年
・本多忠孝 1704(宝永1)年
・榊原政邦 1704(宝永1)年
・榊原政祐 1726(享保11)年
※榊原政岑 1732(享保17)年
・榊原政永 1741(寛保1)年
・松平明矩 1741(寛保1)年
・松平朝矩 1748(寛延1)年
・酒井忠恭 1749(寛延2)年
・酒井忠以 1772(安永1)年
・酒井忠道 1790(寛政2)年
・酒井忠実 1814(文化11)年
・酒井忠学 1835(天保6)年
・酒井忠宝 1844(弘化1)年
・酒井忠顕 1853(嘉永6)年
・酒井忠績 1860(万延1)年
・酒井忠惇 1867(慶応3)年
※酒井忠邦 1868(明治1)年