姫路城で最後の藩主となった、酒井忠邦とは、どんな藩主だったのでしょうか。
酒井忠邦は、明治維新のさなかに、酒井忠惇から姫路藩を引き継ぎ、版籍奉還、廃藩置県を経て、その後、アメリカへ留学しています。
江戸時代の酒井家から明治に移る時代のなかで、姫路城の最後の藩主となった、酒井忠邦について紹介します。
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酒井忠邦とは
酒井忠邦の肖像写真 Wikipedia リンクより
酒井忠邦(ただくに)は、1854年に伊勢崎藩主・酒井忠恒の九男として江戸に生まれます。
1868年に姫路藩主、酒井忠惇(ただとし)の養子となり、同年、姫路藩酒井家の第10代藩主となります。
本家でないところから養子に入り、姫路藩の酒井家を引き継いた忠邦は、最後の姫路藩主として、姫路城史に掉尾を飾りました。
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明治維新の姫路藩と酒井忠惇
酒井忠惇の肖像 Wikipedia リンクより
姫路城の最後の藩主、酒井忠邦を知るうえでは、姫路藩の明治維新と、養父である酒井忠惇(ただとし/ただとう)がポイントです。
酒井家は、江戸時代の中期から後半にかけて、長く姫路藩を治めてきましたが、第9代藩主の忠惇の時に、明治維新が起こります。
(酒井家は) 忠学・忠宝・忠顕・忠績を経て忠惇に至り、明治維新の大改革が起きた。
姫路藩の多くは佐幕派であったので、勤王派の河合宗元および子の宗貞、萩原政興などに死を命じ、忠惇は将軍・慶喜に従って京都にあった。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p42より
明治維新では姫路藩のなかでも、徳川幕府に順ずる佐幕派と、新勢力に加勢する勤王派に、意見が分かれていました。
そんななか、幕府の老中でもあった忠惇は、ゆかりの深い徳川家に味方します。
鳥羽・伏見の戦い Wikipedia リンクより
その後、慶応三(1867)年十二月三十日から鳥羽・伏見の戦争があり、慶喜の軍は敗れ、忠惇は江戸に逃亡した。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p42より
旧幕府軍と新政府軍が戦った、鳥羽伏見の戦いで、徳川慶喜が江戸に逃げ帰った際には、姫路藩主の忠惇も同行していました。
忠惇が最後まで徳川幕府に味方したので、明治維新の新勢力は、忠惇が藩主であった姫路城に迫ります。
明治元(1868)年一月十日、官軍が続々と姫路城に向かってきたので、十六日に至ってあわただしく開城して恭順の意を示し、伊勢崎城主・酒井忠恒の子の忠邦を迎えて藩主とし、ようやく事態は収まった。
この忠邦は最後の城主である。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p43より
姫路藩は忠惇にかえて、酒井忠邦を藩主に迎え入れ、新政府に従うことを示すことで、事態を収めます。
こうして忠邦は、姫路藩酒井家の第10代藩主になり、そして、忠邦が最後の姫路藩主となります。
姫路藩を引き継いだ酒井忠邦
姫路藩主となる酒井忠邦は、新政府との戦いのなかで朝敵とみなされた、姫路藩の汚名を返上するために、奔走することになります。
忠邦の治世と功績
・名代として朝廷へ謝罪
・酒井家のため種々の嘆願
・新政府に15万両の献金
・旧幕府派家臣の処分(戊辰の獄)
・家督引き継ぎと本領の安堵
・姫路藩政の改革
明治維新の時代のなかで、姫路藩の本領を安堵するために、忠邦は著しい功績を果たします。
廃藩置県で姫路藩は姫路県に
酒井忠邦は、諸藩に先駆けて版籍奉還の建言書を提出します。これにより忠邦は、姫路藩の知藩事(藩知事)に任命されます。
版籍奉還とは、明治維新において、各藩が治めていた、領地(版)と領民(籍)を、朝廷に返上すること。
版籍奉還の2年後、廃藩置県によって、姫路藩は姫路県になります。(後に飾磨県を経て兵庫県に合併)
廃藩置県では、知藩事の東京移住が命じられたので、これに従い、忠邦も姫路を離れることになりました。
酒井忠邦はアメリカへ留学
廃藩後、東京に移った酒井忠邦は、1871年12月から1875年1月までの約3年間、アメリカに留学します。
そして、アメリカから帰国した忠邦は、その年の10月に、養祖父である酒井忠顕の娘を、妻として迎え入れます。
しかし忠邦は、間もなく肺の病を患い、1879年3月にその生涯を終えます。享年26歳でした。
※参照:橋本政次『姫路城史 下巻』p136
姫路神社は酒井家をまつる神社
酒井忠邦が亡くなった同年に、姫路では、酒井家をまつる神社が建立されます。
姫路神社
姫路神社は明治維新の際まで姫路藩主であった酒井伯爵家の祖・酒井正親をまつる神社で、本町五〇番地にある。
明治十二(1879)年十一月十日、旧藩臣が創立したもので、県社である。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p55より
姫路神社は、現在でも場所を移して、大切にまつられており、姫路城天守閣が近くに見える、東北隅の敷地に鎮座しています。
姫路城の最後の藩主まとめ
廃藩置県によって、酒井忠邦が姫路を去る日、藩士と領民が沿道に列をなして、深く別れを惜しんだといいます。
忠邦は、将来を望まれながらも、若くして亡くなりましたが、姫路に偉大な功績を残してくれました。
温故知新、江戸時代後半の長きにわたって、姫路のまちを治めた、酒井家と忠邦への評価と顕彰が、進むといいなと思います。
※参考文献『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』『姫路城史』