姫路城に関する、クイズになるような雑学(うんちく)や、疑問を解決する豆知識などを、7つ選んでまとめてみました。
周辺に住んでいた忍者の記録、播州皿屋敷の伝説は実話だったのかなど、姫路城の秘密を紹介します。
姫路城の雑学・豆知識 忍者いた?
姫路市には「忍町(しのぶまち)」という地名があり、実際に忍の者が住んでいたと伝わっています。
江戸時代に姫路藩主をつとめた、松平明矩の時代には、実際に忍の者が使われたという記載が、姫路城史ありました。
同月十七日南畝町で富札を行ったので、歩行目付、忍の者並に横目、足軽等を出して偵察させた。
『姫路城史 中巻』p408より
(松平)明矩は -中略- 馬奉行沖波江に命じて神馬を出させ、根村杉九朗に命じ、歩行目付、忍の者、横目、足軽などをして偵察させた。
『姫路城史 中巻』p414より
六月一日忍の者から大目付杉九朗衛門を経て伺ひ出たので、任意祈祷せしめ、大目付、小頭、組三組のものも総社境内大興寺に於て平穏の祈願を行った。
『姫路城史 中巻』p415より
忍の者とは、忍術をもって仕えた人であって、現在の忍者のイメージとは少し違い、ひとつの役割のように記載されています。
皿屋敷伝説のお菊井戸は実話なのか
姫路城の城内には、播州皿屋敷の伝説で知られる「お菊井戸」があります。
播州皿屋敷とは
江戸時代に広まった怪談話。井戸に投げ込まれたお菊の幽霊が、夜な夜な悲しげに、皿の枚数を数えるというもの。歌舞伎の演目としても有名。
皿屋敷の物語は、播州のほかにも、江戸番町皿屋敷、出雲や土佐など、日本各地に言い伝えがあり、有名なのが播州皿屋敷と言われています。
明治時代の姫路ガイド『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』のなかには、皿屋敷の物語が詳細に書かれていますが、冒頭に、このような記述があります。
このお菊神社の話は好事家の作り話で取るに足らないものであるが、ここで試みにその顛末を述べて旅行する方にご覧いただこうと思う。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p96より
姫路では、現在の姫路城が建てられた、ずっと前から、皿屋敷の逸話が伝わっているので、長い歴史の中で、怪談話が盛りに盛られて、創作されていると書かれています。
皿屋敷の物語については、当時によく似た歴史背景が、日本各地にあったので、全国で定番のストーリーとなり、人気の怪談話として広まったと言われています。
姫路城が現存12天守で残った理由
日本には現在、江戸時代またはそれ以前に建設されて、修復しながら保存されている、お城の天守が12あります。
現存12天守
犬山城、彦根城、姫路城、松本城、弘前城、丸岡城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城
姫路城もそのひとつですが、明治2年の版籍奉還で官有となってから、全国諸城の廃棄とともに、取り壊しの危機がありました。
しかし、陸軍大佐中村重遠が、明治11年、当時の陸軍卿山県有朋を動かして、陸軍省の経費で保存されることになり、廃城の危難を免れました。
このことから、姫路城には、菱の門を入ったところに、中村大佐の顕彰碑が、建てられています。
その後も姫路城は、大規模な保存修理が行われて、戦火を免れ時代を乗り越えながら、江戸時代の様相を残しています。
姫路城が白い理由 なぜ白い?
姫路城の美しさを象徴するのが、白い漆喰で覆った、その白さです。壁や屋根瓦の継ぎ目など、表面が白漆喰で仕上げられています。
漆喰(しっくい)とは
石灰を主成分とした塗り壁材のこと。姫路城の漆喰は、消石灰、貝灰、すさ、海藻などが使われている。
姫路城の漆喰は、白漆喰総塗籠造という工法が用いられており、薄く何度も塗り重ねられた厚みは、2~3㎝にもなります。
塗籠造は、防火・耐火のために用いられる工法で、白漆喰で塗ったのは、景観を優美に仕上げるためだと考えられます。
城郭の秘密性からいうと、目立たない色にするべきところを、あえて目立ちやすい白色としたのは、威厳を示す政治的意義があったと言われています。
天守はどちらを向いているのか論争
姫路城の向きについて、明治時代の姫路ガイド『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』のなかに、このような記述がありました。
この城は南に背を向け北に面しているので、その美しい景観は北から望むのが良い。思うに、昔は国道が城の北側にあったためであろう。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p85より
現在では、有料区域の入城口が南側にあり、姫路城の正面というと、南側から見た姿をイメージしていたので、意外に思いました。
一方で、1949年に発行された『姫路城の話』には、このような記述があります。
大天守が南向きであることは少しも疑いがない。北向き説にはもう一つ、むかしは国道が北にあったということを理由にするが ~中略~ 国道が北にあったなどというような説は全然問題とならないであろう。
『姫路城の話』p36より
姫路城がどちらを向いているのか、歴史家のあいだでも議論があり、意見が違うというのが、興味深いところです。
姫路城に畳は敷いてあったのか
姫路城の各階には、引き戸の溝がありますが、襖(ふすま)や畳は、あまり見られないので、謎になっていました。
ところが、昭和の保存工事で、地階から大天守最上階の板戸18枚、東小天守一階床下から半畳の畳一枚が、発見されました。
このことから、一部分だけかもしれませんが、戸や畳も使われていたことが、うかがい知れます。
普請奉行と大工棟梁の名前
現在の姫路城を築いたのは池田輝政ですが、普請奉行や大工棟梁の名前も、記録に残っています。
普請(ふしん)とは
土木・建築工事のこと。姫路城は池田輝政の命を受けて、家老の伊木長門忠繁が普請した。
姫路城の工事は、1601(慶長5)年から始まり、1609(慶長14)年までの8年間、足掛け9年を費やしました。
雑学で姫路城を面白く観覧する
姫路城を観覧する際には、ちょっとした雑学や豆知識があると、何倍も楽しむことができます。
姫路城の入城口では、観光ガイドの受付があるので、ガイド付きで見学ルートを観覧するのがおすすめです。
普請奉行:伊木長門忠繁(池田家の家老)
大工棟梁:桜井源兵衛
石寄の支配:榎村助太夫長之(宿村名主)
釜や道具、金具類の調達:芥田五郎右衛門家次(野里村鋳物師)