榊原政岑 姫路城での素行とは?高尾太夫を身請けし城下の美人を漁った好色大名

榊原政岑

スポンサーリンク

姫路城で藩主をつとめた、榊原政岑(さかきばら まさみね)を紹介します。

榊原政岑は、美人で有名な高尾太夫を身請けし、姫路城に榊原高尾を住まわせるなど、花魁を身請けした大名として逸話が伝えられています。

明治時代の姫路ガイド『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』のなかでは、姫路藩主の榊原政岑について、このような記述がありました。

この政岑は女色を漁って姫路の美女はことごとく側室とし、また江戸の名高い芸者である高尾を身請けして連れ帰るなど素行が良くなかったため、後に所領を半減されて江戸に召喚された

『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』より

本当に、こんな破天荒な藩主がいたのでしょうか。調べてまとめてみました。

※ 原書では、美女→美色、側室→妾(めかけ)と記載あり。

関連記事 姫路城の城主【初代(建てた人)~最後まで】歴代一覧まとめ

榊原政岑(まさみね)とは

政岑は1715年江戸生まれ(※所説あり)。

その後、姫路藩主・榊原政祐(まさすけ)の後を受け継ぐかたちで、藩主になりました。政岑18歳のときでした。

当時の将軍は「徳川吉宗」なので、財政を立て直すために倹約令を出していましたが、政岑はそれを無視。

贅沢を尽くして、江戸吉原で派手に遊ぶなどしていました。

スポンサーリンク

高尾太夫を身請けした大名

榊原高尾

政岑は、江戸吉原の遊女「高尾太夫」を大金を叩いて身請けし、姫路城の西屋敷に住まわせます。

さらに、高尾のために豪華な酒宴を開くなどしていました。

このような政岑の行為は、尾張藩主「徳川宗春」同様、享保の改革に対する抵抗と見なされ、吉宗の怒りを買い、とがめられます。

【追記】美人高尾太夫を舞台で再現!

姫路市で、美人高尾太夫と、姫路藩主榊原政岑の物語が、舞台で再現されました。

劇団「JuGeM(じゅげむ)」では、2019年6月に舞台「花魁物語」を姫路市内で公演し、満席の大盛況となりました。

榊原政岑は隠居で越後高田へ

源氏車:榊原忠次


吉宗は、政岑に対して武士の身分を取り上げる措置も検討しましたが、重臣の懸命な弁明により、越後高田への強制隠居ということになりました。

その後、越前高田に移ってからは、政岑は倹約の生活を送り、政務にも励んでいましたが、転居後2年ほどで亡くなりました。享年29歳でした。

※ 参考:Wikipedia「榊原政岑」

姫路城で美女を漁った不行跡

榊原太夫

政岑の不行は、具体的にどのような行為があったのでしょうか。『姫路城史 中巻』で調べてみました。

政岑の淫荒は度なく、高尾の他にも度々遊女を落籍せしこと

『姫路城史 中巻』より

帰城の途中、有馬温泉に入湯し、湯女三人を落籍して姫路へ連れて帰った

『姫路城史 中巻』より

姫路城下の町人の妻を城中に引き入れ、奥に留めて帰さず、その夫が京都奉行所に訴え出ると、女を返して、逆に夫を召し捕まえて刑に処した。

『姫路城史 中巻』より

このような記録が本当ならば、そうとうに破天荒ですね。

姫路名勝誌にあった「城下の美人をことごとく漁った」という記述も、あながち本当なのかもしれません。

徳川宗春 名古屋の名君とつながり

Tokugawa Muneharu.jpg
徳川宗春を描いたとされる画像 Wikipediaより

政岑の不行は世に喧伝されて、さまざまな噂を呼びました。

しかし事実は、尾張藩主「徳川宗春」と意見を合わせ、将軍「徳川吉宗」の政策に反対する意図的な行為であったとする説もあります。

現在、名古屋市では名古屋城を当時のまま再建する計画が進んでいます。同時に徳川宗春をNHKの大河ドラマにしようという活動も盛り上がっています。

この動き楽しみです。

徳川宗春が大河ドラマになると、もちろん、姫路城の榊原政岑にも注目が集まります。

名古屋城の再建、徳川宗春の大河ドラマ化、榊原政岑にも注目という、そんな流れができたらいいなと思います。

姫路城で三味線・浄瑠璃の風流大名

姫路藩にも破天荒な藩主がいたんですね。

この物語を知っていると、姫路城の見方が変わってくるかもしれません。

政岑は将棋や三味線・浄瑠璃などに堪能で遊び好きであったことから「風流大名」とも言われています。

政岑が注目されることで、高尾太夫との物語や、遊女の歴史など、姫路城にまつわる文化について理解が深まるといいなと思います。

※参考文献『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』『姫路城史』

下のボタンでシェアできます
ABOUT US
八名一平