姫路駅前から歩いて行ける、播磨国総社(射楯兵主神社)に、縁結びのご利益がある南鳥居から入って、お参りしてきました。
播磨国総社は歴史が古く、お宮参りや厄払い、結婚式などで年中賑わい、年越しから初詣にかけても人気です。
明治時代の姫路ガイド『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』でも紹介されていたので、付録の地図を使いながら、総社の神様と由緒をたどってみました。
播磨国総社(姫路市)の場所
住所:兵庫県姫路市総社本町190
播磨国総社は、姫路城の南東に位置し、姫路駅前から徒歩約15分の場所にあります。
播磨国総社の正式名称は、射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)で、播磨地域では「そうしゃ」と濁らない読み方をします。
播磨国総社に縁結び通りを通って参拝
播磨国総社の南側に面した、国道2号線東行き沿いには「射楯兵主神社」の大きな石柱が見えます。
こちらが、播磨国総社の南鳥居です。本殿まで参道がまっすぐに続いていて、神門が見えます。
この鳥居は、姫路城主榊原忠次が寄進したものだというので、歴史を感じながら、鳥居をくぐりました。
この通りは「ひめじ縁結び通り」と命名されていて、姫路の新名所として、知られるようになっています。
51個のハート模様が描かれた、縁結びプレートが、足元に埋め込まれています。
こちらが、播磨国総社の南にある、神門になります。
魔除けや災難除けを願ってくぐる「茅の輪」は、この神門前に設置されます。
駐車場の付近に車のお祓い所
こちらが、神門の前にある、参拝者の駐車場付近です。
播磨国総社では、交通安全祈願で、車のお祓い(ご祈祷)もしてくれます。
境内の西側に車祓所があり、鳥居の前に車を停めて、受付で手続きをします。
こちらが、西側から見た、播磨国総社の境内図になります。
神門を入ると境内には、手水舎があります。
手水舎の付近に「撫でみみづく」が設置してありました。みみづくは、播磨国総社のキャラクターにもなっています。
ご利益(御神徳)
こちらが、播磨国総社の拝殿になります。この後ろに本殿、裏手には十二社合殿、西播磨総神殿、東播磨総神殿があります。
さらに、本殿から奥(東側)のほうには、たくさんの摂末社が、あわせて祀られています。
摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)とは
神社の境内にある小さな社の呼称。本社との由緒が深い神社を摂社、末社はそれ以外のもの。
境内の摂末社には案内板が設置してあり、スマホでQRコードを読み込むと、神様についての説明が見られるようになっています。
ご利益(ご神徳)はそれぞれにあるので、参拝する際には、気になる神様を探しながら、散策してみるのがおすすめです。
播磨国総社(射楯兵主神社)の主祭神
惣社(射楯兵主神社)は姫路城の旧城内にあり、祭神は大己貴命と五十猛命で、明治維新前までは軍八頭正一位惣社伊和大明神と称し、社領一五〇石があった。
この伊和大神とは大己貴命の別名で、素戔嗚尊の御子に当たり、中国地方・北陸地方などを開拓なさった神である。またの名を兵主明神ともいう。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p46より
記述によって別名になりますが、大己貴命=伊和大神=兵主明神と、五十猛命=射楯六神が、播磨国総社の御祭神です。
- 射楯大神(いたてのおおかみ)
- 兵主大神(ひょうずのおおかみ)
わが国の三大城の一つに数えられる名高い姫路城は、三〇〇〇年来名前のあるこの姫路丘に築かれたもので、神代にはこの辺り一帯を伊和里と呼んだようである。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p25より
ちなみに、姫路城が建っている、姫路丘の辺り一帯を、神代には伊和里と呼んだようです。
播磨国総社(射楯兵主神社)の歴史
564(欽明天皇25)年6月11日、飾磨郡伊和里水尾山に創祀したのを、787(延暦6)年6月11日、国衙荘小野江に遷した。
また、射楯六神とは大己貴命の兄神である五十猛命のことであり、神功皇后が朝鮮半島から帰陣なされた時に因達里に創祀されたのを、後に小野江の兵主明神社に合祀して射楯兵主神社と称した。
『延喜式』神名帳に「播磨国飾磨郡射楯兵主神社二座」とあるのはこれである。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p47より
播磨国総社の歴史は、兵主の神を水尾山に祀ったのがはじまりで、そこから小野江という場所に移したとあります。
後に、因達里で祀っていた、射楯の神と一緒になって「射楯兵主神社」になったということです。
延喜式神名帳に「射楯兵主神社二座」と記載があり、平安時代には一緒に祀られていたことがわかっています。
延喜式神名帳とは
「延喜式」は平安時代中期の927(延長5)年成立の法制書。このうち巻九・巻十では全国の神社を紹介しており、その部分を「神名帳」と呼んでいる。
※文化遺産オンラインより
この小野江は現在の惣社の三丁ほど西北で、因達里は現在の東坂本村あたりであったろうかという気がする。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p47より
一丁は約109mなので、地図の赤丸で囲んだところが小野江の場所とあり、そこは現在でいうと、護国神社の北あたりになります。
また、因達里の場所は、東坂本村あたりとあるので、現在でいうと、書写山東坂参道の麓に推定されています。
また、水尾山は現在の三軒屋村秩父山の旧称で、『播磨風土記』にある「十四丘」の一つである箕丘のことである。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p47より
兵主の神を祀った場所の、水尾山については、読み仮名に「みのお」と書かれていて、箕丘(みのおか)のことだとあります。
水尾山とその付近
船場にある龍野町三丁目から北に行けば、薬師山の連なった丘である小部山の麓を過ぎて、姫路監獄支所の前に出る。その少し北に小さな丘がある。
これこそ『播磨国風土記』にいうところの「箕丘」で、後世水尾山と書いた。すなわち、惣社の神である大己貴命がまつられた元の地である。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p126より
現在では開発により無くなっていますが、明治の地図には赤丸で囲んだ場所に「箕丘 (俗称 秩父山)」と表記した、丘が描かれています。
現在でいうと、姫路市立城西小学校の、南東あたりになりますが、その場所にあった小さな丘が、水尾山だということです。
なぜ神様はまとめられたのか
安徳天皇の御世の1181(養和元)年11月15日、播磨全土の一六八社の神社を合祀して軍八頭正一位惣社伊和大明神と称した。
軍八頭とは、軍事において八百万の神の中でも優れているという意味で、惣社とは、播磨全土の神を統括するとの意味であるという。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p48より
播磨国総社は、播磨にあった大小の神社があわせられて、統括するという意味で「総社」と名付けられました。
※公式サイトでは174座の神々を合わせ祀ったとあります。
この惣社が小野江から現在の地に遷ったのは1581(天正9)年のことであるという。
『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』p49より
小野江にあった社殿は、秀吉が天守と城郭を整備するのにあわせて、地図に四角で囲んだ、現在の場所に移転したといいます。
現在の社殿がある場所は、姫路城中曲輪の内側で、堀に面した南東の角にあたります。
564年 水尾山に兵主の神を創祀
↓
787年 小野江に移転
↓
927年頃までには射楯の神を合祀
↓
1181年 播磨全土の174座の神々を合祀
↓
1581年 現在の場所に移転
姫路にいながら摂社・末社で参拝
播磨国総社は、姫路城(1609年完成)、書写山圓教寺(966年創建)よりずっと昔から、播磨の地に鎮座する、由緒ある神社です。
境内には、摂末社があるので、遠くに行かずとも、姫路にいながら、思い込めたい神様に参拝できます。
年末年始は、射楯大神・兵主大神の御祭神と、播磨の大小神々を合わせて祀る、播磨国総社に、足を運んでみてはいかがでしょうか。
※本記事は、明治時代の姫路ガイド『現代語訳 沿革考証 姫路名勝誌』を参考に作成しました。
・大阪府大阪市の住吉大社
・兵庫県西宮市の西宮神社
・兵庫県加古川市の日岡神社
・静岡県の秋葉山本宮秋葉神社
・山形県の出羽神社
・兵庫県明石市の柿本神社
・栃木県の日光東照宮
・香川県の金刀比羅宮
・茨城県の鹿島神宮
・三重県の伊勢神宮
・長野県の戸隠神社
・京都府の伏見稲荷大社
・三重県鈴鹿市の椿大神社
・三重県伊勢市の猿田彦神社
・大分県の宇佐神宮
・和歌山県和歌山市の淡嶋神社
・福岡県の太宰府天満宮
・京都府の北野天満宮