首都移転計画が兵庫県加古川市にあった!? 候補地のメリットと検討経緯を調べてみた

東京から兵庫県加古川へ首都移転

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明治維新で京都から東京へ遷都して以降、日本ではたびたび首都機能移転の議論があったといいます。

そのなかで、兵庫県加古川市に首都を移転する議論が、真面目にあったというので、候補地のメリットと検討された経緯を調べてみました。

首都移転計画が加古川にあった

国土交通省のホームページに、明治維新による東京遷都の経緯と、その後の第2次世界大戦までの遷都論について、書かれた論文がありました。

その中に、関東大震災後に首都移転計画の議論があったと書かれています。

この時期で最も首都移転が意識されたのは1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の時であろう。

国土交通省HP「東京遷都の経緯及びその後の首都機能移転論等」より

震災により、首都東京を中心とした一帯が、甚大な被害をうけたので、百年に一度の大震災を免れないと言われる東京から、他の都市に首都を移転する議論が高まりました。

また、当時の日本は、日韓併合(1910年)の後で、領土の拡大で全体として見た場合に、より南西の場所が適当であるという意見がありました。

陸軍では、関東大震災直後の9月6日に、今村均少佐が武藤信義参謀次長の命令で遷都先についての意見書案を作成している。

国土交通省HP「東京遷都の経緯及びその後の首都機能移転論等」より

当時、陸軍の今村少佐が作成した意見書のなかに、兵庫県加古川市が、首都移転の候補地としてあげられています。

首都移転計画を検討した今村均 (陸軍大将)

Hitoshi Imamura


今村均(いまむらひとし)氏は、宮城県仙台市出身の陸軍大将で、首都移転の意見書を作成したときは、37歳少佐でした。

戦後、今村大将の陸軍生活について、約60年の自叙を総括してまとめた、回顧録が出版されています。

そのなかで、首都移転の意見書が提出された経緯と背景について、詳細に書かれていました。

参考

今村均(初版 昭和45年5月)『今村均回顧録』 ㈱芙蓉書房

首都移転計画の候補地は3カ所

今村氏は、震災の倒壊をまのがれていた参謀本部の文庫で、1日がかりで歴史、地理、地質等の4、5冊を参考にしながら、文を綴ったといいます。

そして、候補地に3つの都市をあげています。

● 第一は、京城(ソウル)の南、竜山
● 次は、播州加古川流域
● 万己む得ない場合は、宮城(皇居)と政府機関とを八王子付近に移す

加古川の理由としては、以下のような記述がありました。

加古川平地は、歴史上、大きな地震に見舞われていない。

この川の水は、量も十分質も良い。

商工地帯を阪神地方に置き、皇居と政府機関と、教育施設だけをここに移し、ワシントンにならい設計する。

ここの丘陵の起伏は、理想的な防空施設を実行し得る。

今村均回顧録』p132より

今村氏は、十枚ほどにまとめた意見書を、陸軍参謀本部の武藤信義次長に報告します。

首都移転計画は失敗でどうなった?

陸軍参謀本部のこのような動きは、後に八幡和朗の著書『遷都』でも取り上げられています。

参考

八幡和朗(昭和63年8月)『遷都―夢から政策課題へ』中央公論社

今村氏の意見書は、一旦「それでよし」と浄書きが命じられるも、数日後には各方面から遷都の意見が出るようになり、人身が動揺するなかで、陸軍として遷都の意見を出すのは、見合わせることになります。

その数日後、「東京は依然として国都としての地位を失わない」という、詔書(天皇が発する公文書)が出されます。

それ以降、遷都の可能性については、真面目な議論が行われなかったといいます。

首都移転するなら播磨地域にメリット

加古川への遷都論、興味深いですね。

現在においても、播磨地域が首都移転の適地であることは、いうまでもありません。

東京への一極集中は、災害や危機管理など、いろいろな意味で、問題があるんだと思います。

最近では、文化庁が京都に移転する案や、消費者庁が徳島に移転する案など、政府機関が東京から地方に移転する議論がありました。

播磨地域でも、政府の主要な機能が、移転する議論がでてくると、おもしろいなと思います。

>「世界の首都移転―遷都で読み解く国家戦略」を見てみる

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